どの価値観を優先すべき?

先日、占いが非常に好きな人と話す機会がありました。

ゲッターズ飯田という元?芸人さんのサイトで、相性が合う人に友達申請をするらしいです。

全く知らなかった世界なので、話を聞くだけでも、面白くて。

お互いの生年月日を入力すれば、二人の相性がわかるそうです。

ふと思ったのですが、生年月日での占いって、どこが限界なんでしょうかね。
易学っていうのは、中国からきたものでしょうし、イスラム、ヨーロッパの人に対しては、想定tができてるのでしょうか。

たとえば、一夫多妻制のイスラム教徒の人と、一夫一婦制の日本人の相性がすごく良い数値が出てるんだけど、奥さんをたくさんもてるって考え方と、奥さんは一人だけしかダメという考え方だから二人は相容れないなんて場合があると思うのだけれど。。。

それとも、人としての基本的なところに共通していて、細部で違う(気は合うけど、宗教が違うために、その部分では合わない)ってなことがなんでしょうかね。

まぁ長年の叡智で、合わない人がいるってことを示してくれているだけでも、儲けモンなのかもしれません。
すべての人を愛して、すべての人に相手の望むことを提供していたら、自分の望むことが得られないかもしれませんから。

物事にはいろいろな見方がありますが、世界平和、人類共存ってことを考えた時に、どの見方をゆうせんするべきなのか。

価値観自体を見直す必要がある時代がきているのだと思います。

さぁ楽しんでやってみよう。

頭が悪いのに、いいふりをしてもしょうがない。

人間誰しも、人から頭が悪いと思われたいという気持ちは 持っています。
もちろん、凡人以下の能力しか持ち合わせていない私でも、そういう気持ちを持っています。

なので、カッコつけて文章を書こうとするのですが、
どうもかっこ良くならない。

カッコつけようとしても、カッコ良くかけない。
おもしろくしようとしても、おもしろくかけない。

なんでだろうと考えていたのですが、

ある方から、
「オメーの文章は、面白い、面白くない。カッコいい、かっこ良くない、の前に、主語述語ねーから、意味がわかんねーんだよ。囲碁やる!とか言う前に、小論文講座に通え。ゴラ!」
とご指摘をいただきました。

恐れおののいて、プルプルしていると、
「読んだことねーけど、良さそうだから、コレ買っとけ!」
と、こちらの本を紹介されました。

<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/404883908X/hironaga28tak-22/" target="_blank" >「頭がいい」とは、文脈力である。</a>

ということで、今、読んでます。

この本を読むと、本の読み方、文章の書き方、考え方、伝え方、会話でのポイントなど、全てにおいて、基礎を勉強し、練習することの必要性を感じずにはいられません。

僕は、理系にしては国語が得意で、センター試験の古文、漢文は、単語やルールを覚えなくても、ほとんど正解できていました。
そのため、その分の時間を他の科目に回そうとし、国語の基礎を勉強してこなかったんです。
今、そのツケを払わされているのだと思っています。

自分ができないということを認めること。 
無知の知。

言葉では知っていましたが、腹の中まで落ちていなかったのでしょう。

頭が悪いので、少しでも頭がよくなるように、
もう一度、国語の基礎を勉強いたします。

さぁ楽しんでやってみよう。

真摯に対応したと答えられる人間でありたい

これまで、数々の失敗をしてきた。

これからもたくさんの失敗を重ねていくのだろう。

もちろん、今まで出会った問題には、
成功したい、解決したいと思って、
取り組んできたし、挑戦してきた。

けれども、その時の自分のちからが足りなかった、配慮が至らなかったから、
失敗をした。

そのちからのなさ、配慮のなさを咎められるときもあるだろう。

その時に、自分のことばで、
問題に対して、相手に対して、自分に対して、
真摯に対応したと答えられる人間でありたい。

自分の可能性を鬼のように信じることにした。

自分の可能性を鬼のように信じることにした。

他の人はわからないけど、
俺は 今までできてきた。

目標としてきたことをすべて達成してきた。

ずっとやりたいと思っていたことは、全部やれてきた。
やりたいと思っていたことを覚えている限り、すべて間違いなく、すべてできてる。

大学受験も、大学院受験も合格できた。

仕事で研究職につきたいと思ったらなれたし、それから、経理やってみたいなと考えたら、部署異動になって経理になった。

東京なんて嫌いだと思っていたら、東京には全く縁がなかった。
出張すらなかった。

東京に、板倉雄一郎さんの「企業価値評価セミナー」に参加するために、初めて出てきて、
東京という街よりも、橋口さん、マックさん、榎並さん、ブログで自分の考えを発信している人たちのコミュニティーにあこがれて、そのコミュニティーに参加したい、
東京に行きたいと思っていたら、東京に異動になった。

そして、別の場所で、ブログを書いて日々を自分の考えを発信している人たちと出え、友人、心友という間柄になれた。

フィジカルは、人生で一度は挑戦してみたいと思っていた、フルマラソンも走れたし、ウルトラマラソンも完走した、今はトライアスロンもやっている。

だから「俺はいままでやりたいことをやれている。」ということを腹の底から理解した。

だったら、これからやりたいことができないかも知れない…。

なんて考える必要はないだろう。

だって今までやりたいことはできてきたんだから、いままで経験からいって、やりたいことはできることなんだ。

間違いない。

俺は、今までやりたい、なりたいと、本気で思ったことはすべて達成してきてる。
だから、これからやりたいと思っていることはすべて達成できる。

自分の可能性を鬼のように信じることにした。

さぁ楽しんでやってみよう。

(ただし、できていないことは、やりたいと思っていたことすら、忘れている可能性が高い)

何も知らない人でもできるように効率化を進める

「自らの強みに集中しなさい」
とは、ドラッカーの言葉です。

これを他の言い方にすると、

「他の人ができることは、ほかの人にやってもらいなさい。自分にしかできないことをやりなさい。」

ということになります。

自分自身、人に話をするときは、
「単純作業は新人やアルバイトにやってもらい、そのほかのことができるようになったほうがいいよね。」
と話しています。

ただ、なぜか、自分が他の人に任せるとなると簡単にYESと言えなかったのです。

指示出しが簡単な書類整理などであれば、すぐに「任せましょう!」と言えるのですが、
自分が作ったエクセルシートを使ってやっていることを、人に任せることに抵抗を感じてしまうのです。

「相手がある程度、関数や知識がわからない」だとか、「関数を触られて、ぐちゃぐちゃにされたらどうしよう。。」という心理ブロックが働いてしまうのです。

なぜ、この心理ブロックが発動するのか?

理由は、「自分がいかに楽になるかを前提に業務効率化進めていた」からでした。

自分と同等のスキルがある人(というか次回同じことをやるであろう自分)にしかわからないように業務を組み立ていたのです。

エクセルや業務内容に関しての基礎知識がないスタッフに関しては、勉強してもらい、自分と同程度の知識をつけてもらってから、業務を引き継ごうと考えていました。

今まで人任せな考え方で仕事をしていたのだと思います。

本日、上司から、
「私らエクセルわからんし、でけへん。それでもできるように作るのができる人の仕事ちゃうん」
と言われ、気がつきました。

これからは、
「何も知らない人でもできるように効率化を進める」

さぁ楽しんでやってみよう。

ふと目に止まった広告

ふと目に止まった広告。

「13歳で結婚、14歳で出産。恋はまだ知らない」

それを見て、僕はその広告の提供元であるプラン・ジャパンなるものをを検索した。

どうやら、世界の女の子の中で、小さいうちに結婚させられ、子供ができ、
学ぶという環境を提供されない子ども達がいる。
それは大きな機会損失だから、寄付金を募り、その環境を変えたい。という趣旨の団体であるようだ。

僕が「プラン・ジャパン検索する」という行動を起こしたことは、
この広告が、僕に何かを伝えることができたということなのだと思う。

たとえ、この広告の最終目的である「寄付」につながらなかったとしても、
プラン・ジャパンという団体が存在すること、世界にはそういう少女達がいるということを、

僕が知るというだけでも、広告した価値があったのだと思う。

ただ、僕が気になったのは、別のところで、
「なぜ、自分自身はこの広告をみて、行動したのだろう。何が僕に行動を促したのか?」
ということだった。

この短いフレーズ「13歳で結婚、14歳で出産。恋はまだ知らない」の中で何が僕に刺さったのか?

僕には、「恋はまだ知らない」の部分が刺さったのだ、
恋を知らないことが幸せではことかのように書かれていることが、気になった。
別に恋を知らなくても、愛にあふれた幸せな結婚生活をおくれているのであればいいんじゃないかと、僕は考えていたのだ。

第2次世界大戦前の日本(それも田舎)であれば、13歳で嫁いでいった女の子も
いたのだ。その人たちは、恋を知らなかったから、幸せでなかったというのだろうか。
彼女たちは、「結婚して、子供ができて、生活はしんどかったけれども、幸せだった」
というのではないだろうか、と考えていた。

この違和感の原因は、僕の中で、「恋」=>「幸せ」と、つながらないからなのだと思う。

「恋」は幸せに必ずしも必要なものではないと考えているのだ。

「13歳で結婚。14歳で出産。愛はまだ知らない。」

この表現であれば、本当に可哀想な女の子がいるんだ、と感じる。

恋愛という言葉があるけれど、この「恋」と「愛」には大きな違いがあるな。
と、広告をみて、検索をしたあとで考えた。

答えはまだことばにできていないけれども。

さぁ楽しんでやってみよう。

人生初碁会所

人生には、多くの初めてがありますが、
昨日、今生で初めての碁会所を経験してまいりました。

おじゃましたのは、
いずみ囲碁ジャパンさん。
棋品・清潔・普及がモットーの囲碁サロンです。

場所も、東京駅八重洲口から地下で直行と、
ものすごくアクセスのいいところにあります。

初めての碁会所なので、ビクビクしながら、恐る恐るドアを開けたのですが、

開けた瞬間に驚きました!!!
キレ~、広い~、爺ちゃんばっか~

僕の中での碁会所のイメージは、地下で、狭くて暗くて、タバコの煙がモクモクとしてるイメージだったのです。打ってる人の中には、ちょっと危なそうな人何人がいるみたいな。

そんな、僕の既成概念をいい意味でぶち壊してくれました
いずみ囲碁ジャパンさん

整理整頓は徹底され、机はピッカピカ。
そして何より広い。

ここって、東京駅前の一等地ですよね?家賃いくら何ですか????
って聞きたくなるぐらい広いです。
井桁師匠によると、200人ぐらい入りますかね。ですって!!!
聞き間違えかもしれないけれども…。

そして、その広い会場に、木の碁盤がズラッと並んでいる姿は圧巻ですね。
いつもは革の簡易?碁盤で打ってるので、木の碁盤に打つのは初めてです。
ここにある碁盤は、「カヤ」、「新カヤ」かな?(ヒカルの碁で覚えた碁盤の木の種類)

まぁ、入るだけでテンション上がりました。
3ヶ月後にはここに来ても恥ずかしくない棋力をつけるぞ!!と。

ただ、碁会所におられた方々が、ご年配の男性ばかりってのは、どうしても気になりました。
10年後で、囲碁が打てるぐらい元気な人は、何人になるんだろう?

若い男性、女性は、ネットに潜んでいるんでしょうかねぇ?

大丈夫か?囲碁界。
まぁ、この囲碁界を変えるのは、IGOホールディングスしかないでしょうね。
もちろん、自分も友人を囲碁に誘えるぐらい、囲碁の楽しさ、魅力を満喫して、伝えていきたいとと思います。

さぁ楽しんでやってみよう。

一手一手の言語化-その3-

一手一手を言語化することによって、
その一手の意味を覚えておくことができるようになった。

本当に最初は自分が何を打ったかということを覚えられなかった。
どこに打ったんだっけ。。。という状態で、師匠にこうですね。
と教えてもらう。
(師匠は横からみてるだけなのに、意味のわからない初心者の一手を再現できるのはなぜなのだろう?
これは囲碁の記憶メモリーが開発いるからといったほうがいいのかもしれない)

そんな状態だったのに、少しずつ自分の打った石を覚えられるようになった。
というか、この状況は、、こう考えたから、こう打った。という感覚。
一度やった仕事を、もう一度した時にああ、そうだったそうだった。という感覚と同じ。

一手一手を言語化することによって、自分の打った一手一手がつながってストーリーになっていくのだ。

ジョブスがconnecting the dotsといったように。

一手一手を言語化するから、あとから繋げることができる。

※昨日書いた一手一手を言語化するによって、
「守」「守」「守」となっている自分の状況がわかる。というのも、、

ジョブスが行っていた、
毎日鏡に「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と問い、
「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直す必要がある。

ということに繋がる。

一手というとても小さな行為に対して、言語化して意味付けを行うことは、
自分の人生の意味付けすることにもことに繋がると感じている。

小さな一手を言語化して意味付けする習慣がついたのであれば、
一日の単位で行ったこと、1時間の単位で行ったことに対しても意味を見つけないと気持ち悪くなるはずで、
それは人生の意味を考えることに繋がるのだと思う。
(自分はまだそこまで達していないけれども。)

囲碁をやってよかったと思うこと

一手一手を言語化する(が習慣になる)こと。

さぁ楽しんでやってみよう。

一手一手の言語化-その2-

囲碁をやってみてよかったことの続き。

一手一手の言語化ーその2ー

前回、

誰にでも、意味がわからない手を打ちたくない、という気持ちが根底にある。
初心者は、自分のこれから打つ一手にどういう意味があるかが、わからない。
だから、一手が打てない。

ということを書いた。

これは、ほぼあってると思う。
なぜなら、自分がつい1ヶ月前まで初心者だったから。
そして、今は初心者に毛が生えた程度だから。

まぁ、定石と言われてもピンと来ない、今だからこそ書けることなのだ。

そして、今、徐々に一手一手に意味付けを行っている最中で、(って昨日からなのだが)
一手打つたびに「守」「破」「離」と自分の一手に込めた意味を言挙げしている。
(この囲碁の「守破離」の意味を知りたい方は、ぜひIGOホールディングスのセミナーへ!!!)

そして、この一手一手の言語化によって、自分の状況がよく分かるのである。

囲碁では、よし、コレ行けてる!!!ってときや、これ結構追い込まれてるな。。。という感覚の状況が何度もある。
単純に、打っていて楽しいか、楽しくないか。ということ何だけど。

その状況の時の一手一手を言語化してみると、面白いことがわかる。

自分が追い込まれている時は、「守」「守」「守」と一手一手に意味付けしていて、
イケイケなときは、「離」「離」「離」と意味付けしているのだ。

一手一手の意味を言語化することによって、
今がなぜイケイケな状態なのか、なぜ追い込まれているのかを認識することができるのだ。
攻めの手が続いている時がイケイケであり、守りの手が続いている時が追い込まれているという単純なことである。

ただ、これは、逆に考えると、「離」「離」「離」って、攻めの一手一手が続けば、
イケイケの状態になれることを示していて、
これって、全てにおいて重要なことなんじゃない?と感じている次第である。

その3へ続く。

さぁ楽しんでやってみよう。

性快説

それぞれの人は考え方が違う。

育ってきた環境が違うから。
宗教が違うから。
そして、その時の置かれた状況も違うから。

良いと思っていてもできないこともある。
悪いこととわかっていても、やってしまうこともある。

性善説、性悪説、諸説あるが、
僕にとって、人が生まれながらに善なのか、悪なのかは、
どちらでもいい。

気になるのは、
自分自身も含めて、いいと思っていることを何故出来ないのだろう。
悪いと思うことを何故やってしまうのだろう。
ということ。

今の自分の結論は、人は自分の気持ちのいいことをする。

自分が快を感じることを選ぶ。

朝の二度寝はやらないほうがいいけど、気持ちいいからやっちゃうし。
飲み過ぎないほうがいいんだけど、気持ちいいから飲んじゃうし。

では、いかにして、その快を自分がやりたいと、自分がありたいと思う状況と結びつけるのか。

やりたい、やるべきことをやることが「快」であることを躾けること。
もしくは、いまやっていることが「快」であるという理由付けをきちんと言語化しハラオチすること。

毎日がキモチイイ!!!とドーパミン、吹き出しまくってる奴と
しかめっ面で明日のために今日は我慢すると言ってる奴

どっちの人生を過ごしたいか。

童話アリとキリギリスでは出てこないけど、
毎日キモチイイ!!といって、仕事してるアリはいる。
自分はそうありたい。

さぁ楽しんでやってみよう。