一手一手の言語化-その3-

一手一手を言語化することによって、
その一手の意味を覚えておくことができるようになった。

本当に最初は自分が何を打ったかということを覚えられなかった。
どこに打ったんだっけ。。。という状態で、師匠にこうですね。
と教えてもらう。
(師匠は横からみてるだけなのに、意味のわからない初心者の一手を再現できるのはなぜなのだろう?
これは囲碁の記憶メモリーが開発いるからといったほうがいいのかもしれない)

そんな状態だったのに、少しずつ自分の打った石を覚えられるようになった。
というか、この状況は、、こう考えたから、こう打った。という感覚。
一度やった仕事を、もう一度した時にああ、そうだったそうだった。という感覚と同じ。

一手一手を言語化することによって、自分の打った一手一手がつながってストーリーになっていくのだ。

ジョブスがconnecting the dotsといったように。

一手一手を言語化するから、あとから繋げることができる。

※昨日書いた一手一手を言語化するによって、
「守」「守」「守」となっている自分の状況がわかる。というのも、、

ジョブスが行っていた、
毎日鏡に「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と問い、
「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直す必要がある。

ということに繋がる。

一手というとても小さな行為に対して、言語化して意味付けを行うことは、
自分の人生の意味付けすることにもことに繋がると感じている。

小さな一手を言語化して意味付けする習慣がついたのであれば、
一日の単位で行ったこと、1時間の単位で行ったことに対しても意味を見つけないと気持ち悪くなるはずで、
それは人生の意味を考えることに繋がるのだと思う。
(自分はまだそこまで達していないけれども。)

囲碁をやってよかったと思うこと

一手一手を言語化する(が習慣になる)こと。

さぁ楽しんでやってみよう。